手話通訳 気が散る? ― 2007年10月31日 23時55分30秒
新聞で、ある落語家が敬老会で手話通訳者に対して「気が散る」「落語は手話には変えられない」などと発言し、舞台から降りるように要求したという記事を読んだ。
もちろん、主催者が事前にその落語家に手話通訳がつくことを話していなかったこと、通訳者が話し手より前方で手話を表現していたことなどの点は少し配慮が足りなかったのかも知れない。(私は手話通訳者を目指す人たちのクラスでは、話し手の気が散らないように、相手のかかとの線上に自分のつま先を合わせるように下がって立つことをいつも生徒たちに話している。)
しかし、難しい落語を何とか耳の聞こえない人たちにも楽しんでもらおうと苦労した経験が私にもあるので「邪魔だ・目障りだ」「落語は手話には翻訳できない」という発言はとても悔しく、怒りを覚える。世の中には耳の聞こえない人たちも一緒に生活をしているという発想はないのか?社会の中で手話が耳の聞こえない人たちの大切なことばとして認知されたというにはまだまだほど遠い・・残念ながらそれが現実なのだろうか?
もちろん、主催者が事前にその落語家に手話通訳がつくことを話していなかったこと、通訳者が話し手より前方で手話を表現していたことなどの点は少し配慮が足りなかったのかも知れない。(私は手話通訳者を目指す人たちのクラスでは、話し手の気が散らないように、相手のかかとの線上に自分のつま先を合わせるように下がって立つことをいつも生徒たちに話している。)
しかし、難しい落語を何とか耳の聞こえない人たちにも楽しんでもらおうと苦労した経験が私にもあるので「邪魔だ・目障りだ」「落語は手話には翻訳できない」という発言はとても悔しく、怒りを覚える。世の中には耳の聞こえない人たちも一緒に生活をしているという発想はないのか?社会の中で手話が耳の聞こえない人たちの大切なことばとして認知されたというにはまだまだほど遠い・・残念ながらそれが現実なのだろうか?
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