おかげさまで2010年04月22日 20時56分45秒

生まれる前
実は私には姉がいましたが、流産をしたそうです。母ももちろん悲しんだとは思いますが、あっけらかんとして病院に行ったら、お医者さんから「もっとしっかりしてくださいよ!そうでないと次の子もまた流れてしまいますよ!」と厳しく注意をされたそうです。私が無事に生まれてきたのも母を叱ってくださった山楽病院の産婦人科の先生のおかげかもしれません(笑)
小学校2年の時
弟とキャッチボールをしていたら、ボールが道路の方に大きくそれました。ボールを追いかけて道路に飛び出した私は自動車にはねられてしまいました。ところが運が良いことにその場所が都立駒込病院の玄関前だったので、私はすぐに病院に運ばれ治療を受けることができたのです(笑)
中学1年の時
親友とふたりで茨城県に行きました。霞ヶ浦の近くを歩いていたとき、私が「ボートに乗りたいなぁ」と言うと親友のNが「あっ、あそこに貸しボート屋がある」と突然道路を横断しようとしました。その瞬間猛スピードで走ってきた自動車にはねられた彼は、はるか前方まで飛ばされガードレールに激突して即死しました。もし私がボートに乗りたいなんて言わなかったら、事故は起きていなかったことでしょう。たぶんNとは今でも一緒にお酒を飲んだり、家族ぐるみでお付き合いをしていた仲だったと思います。
中学3年の時
12月30日から31日に日付が変わる時、隣の家が火事になり、そのまま炎はあっという間にわが家を包みました。家族は4人とも逃げ出して無事でした。しかし、火事で私は着ていたパジャマ以外全てのものを失いました。何もないお正月ほど惨めなものはありません。大晦日の夜は赤十字からいただいた毛布に包まって寝ました。近所でうなぎ屋をやっている同級生のお母さんがうな重を4人分届けてくださいました。自分の人生の中で一番おいしかった食事です。今でもときどき家族で行くそのお店も、今は亡くなられたお父さんの後を私の同級生が継いでいます。
38歳の時
当時3才だった長女を連れて銭湯に行きました。お風呂上りにラムネを飲んだときに、あわててフタも一緒に飲み込んでしまい、息ができなくなりました。私がラムネを飲んで倒れたのを見て番台のおばさんは、その年の夏に起きた「和歌山毒入りカレー事件」を思い出し、すぐに救急車を呼んでくれました。搬送先の東大病院でフタを取ってもらいましたが、あやうく窒息死するところでした。
48歳の時
正月に呼吸が苦しくなり、病院に行くと「心不全です。すぐに入院が必要」と言われ、即日緊急入院しました。当初は重症で、「あと何日生きられるか?」「このまま退院できないのでは?」と不安でした。家族や職場の皆さんにも心配をかけてしまいました。治療の効果が上がらず電気ショック治療を受けることになりました。医師から「1回やってダメだったら、もう1回やります、でも危険なので2回以上はやりません」と言われ、書類にサインをしました。心臓に電気が走ったときは、久しぶりに恋に落ちたような衝撃がありました(ウソ)。治療は成功し、その後退院することができました。1ヶ月会社を休んで付き添ってくれた妻には本当に感謝しています。

こう考えると私は今までずいぶん死にかけているなぁと思います。

手話通訳の大先輩で、私がNHKで手話ニュースキャスターやテレビの手話講座の講師を担当する機会を与えてくださった山城秀生さんが、白血病で亡くなられたのが50才のときでした。自分が50才になる、山城さんと同じ年になるというのはとっても不思議な気持ちです。もちろん山城さんと今の自分を比べてもまだ負けているかなぁと率直に思います。それでも山城さんが「谷君もやっと50になったか」とどこかで笑顔で見守っているような気がします。

親しい人からは「人騒がせでバカなこと」と言われますが、自分にとって特別な思いがある50才の誕生日に、お世話になった方や友人たちを招いてささやかなパーティーを開くことにしました。私にとって特別な一日、どうかこの日だけは私のわがままにお付き合いくださいませ!